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北崎通信局

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西浦の鯛

明日の花祭りの為に、朝5時から西浦名物〈鯛めし〉を地元のお母さん達が
作ります!
西浦の鯛は大変歴史のあるものです。この味飯もハレの食べ物として地元
では昔から食べているものです。
明日の午前中は雷を伴う雨だと予報では言っています。
さぁ、みんなの日頃の行いはどうなんでしょう(笑
それよりも私、間に合うのでしょうか・・・
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鯛網(地漕網)
西浦鯛網の名は、世巳に定評あれば、今更これを辨ずるの要なし。
その始めは、今を去ること、実に百八十一年前、元文二年にあり。その後
寛政二年(百二十八年前)、鯛二艘張を始めしといふ。而して藩主黒田家に、
本浦の鯛を献上したるは、これより先、安永二年に始まり、爾来継続して、
明治維新の際に及べり。
尋で大正四年十一月、辱も今上陛下御即位の大典を挙げさせたまふや、
大嘗祭机代物として、本浦に於て乾鯛調達の台命を蒙れり。
これ啻に本浦の光禜のみに非ず。抑々また筑豊四十六箇浦の光禜
なり。

鯛延網
遠き古より行はれ来たり、一本釣と共に今猶は盛なる。

鰯揚操網
本浦にて、最も古く行われたる漁業は、鰯大地曳網なりといへり。
而して、その古文書の徴するに足るべきものは、寛政二年のころ
なり。爾來幾多の変遷を經て、明治の時代に入り、仝三十年、鰯揚操網
の勃興するに至るや、地曳網は、遂に廃絶に帰し、同一年月、鰯
揚操網使用法、構造法伝習の為に、柴田桂太郎を千葉県に派遣し
たり。
現在、この鰯揚操網は当浦重要漁具の一となり、漁獲高一箇年、
約壱万五千圓以上に及ぶ。

玉筋魚房丈網
寛政十一年(百十九年前)、当地の柴田武三郎といふ人(庄屋)
肥前國寺井より、網糸を仕入れ、玉筋魚大網を製して、使用した
ることあり、これを本浦玉筋魚網の初めとす。
その後、天保十四年(七十五年前)、柴田武右衛門いふ人、この
大網の使用法及び製造方を、野北浦に伝ふ。
当時この漁法が、如何に発達したりかを想ふに足る。
降って明治十三年のころに至り、姪濱浦より、玉筋魚房丈網を伝
え来るとともに、玉筋魚大網は遂に廃絶したり。而してこの房丈
網は、現今、本浦最重要の漁具に数へられ、大正十四年の如きは
漁獲高貳萬圓以上に達せり。

間もなく始まる“かなぎ漁”も昔からのものなんですね。

*写真は鞆ノ浦に行ったときのものです。
by hanataikoku | 2006-02-26 00:15 | 西浦