北崎通信局

kitazaki.exblog.jp
ブログトップ

世界へはばたく 花き産地をめざして

先日から気になっていた、こんなタイトルの小冊子を手にしました。
平成2年12月1日発行と記されています。
発行者は、北崎花き部会。
編集者は、北崎地区花き振興大会実行委員会。

北崎の花の販売額10億円を達成した大会の記念誌なのです。
私の数十年前の北崎の印象は、“電照菊”でした。
福岡市の中心部から、思いっきり足を延ばして糸島半島まで行く
という感じかなぁ・・・
日が暮れる帰り道、くねくねとした道路の脇に明々とついた明かり。
二見が浦霊園が出来る前だったかしら・・・
「このあたりに家を建てたいね」と言っていた父と、なぜか二人で
来ました。

さて、冊子の内容ですが発刊によせてと書かれた県の普及所の
所長さんの文の最後にこう書かれてありました!

さぁー、この「記念誌さん」。いつ、どこで、だれと、どんな出会いが
あるでしょうか、よき出会いを・・・。 

はい、北崎通信局と出会いました~
そして、今は〈ふるさと北崎〉を遠く離れた若者達が読んでくれますよ!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  このたび北崎地区の花き園芸振興大会記念誌が発行されますことを、
心からお祝い申し上げます。
 さて、「北崎の花」といえば、昭和5年、宗利三郎氏が、全国の射撃競技
大会の選手として上京の折、車中で入手された「キンセンカの種子との出
会い」 を抜きに語ることはできないと思います。

 この「一粒の出会い」が、いま、六十年星霜を経て、戦中戦後の食糧難
時代に「喰えない花を作ってどうするのか・・・」と、冷笑を買った北崎を、
世界へ翔く北崎へ変えたといっても言い過ぎではないと思います。

 このように、昭和の時代とあゆみを共にしてきた「北崎の花」。戦中戦後
の辛く険しい苦難の時を乗り越えて、現在の花卉き産地を育ててきた原動
力は、「花の里日本一をめざして」を目標に、地域ぐるみで取り組まれてき
た「むらづくり活動」であると思います。
地域の皆様の活動に対し心から敬意を表します。

輝かしい伝統を持つ北崎花き部会。その目は東京を飛び越えて世界を
見据えています。
世界へ翔け北崎の花」、皆様方の一層のご精進を期待しております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 昭和5年、県内でもいち早く花き栽培が導入され、昭和12年には北崎
花き園芸組合が発足。

戦争が始まると、花栽培は禁止され、昭和18年から昭和21年までが
花き栽培中断の時代ですが、実は山中に球根や宿根ものは隠して栽培
していたそうで、花栽培が出来る平和な時代がいつかやってくると信じて
いたのでしょう。

花の栽培が本格的に取り組まれ始めた昭和10年までは、養蚕やぶどう
等の果樹栽培、きゅうりなどの野菜栽培に取り組んでいました。
花き栽培が始められてから後も、「花を畑に作って」と言われていたそう
です。

福岡花市場までの花の輸送は、大成丸、栄久丸という船便輸送や重荷
用自転車、リヤカーといったものから自動二輪車を経て、軽四輪へと変
化していきます。

小さな種一粒から広がった北崎の花づくり。
たった一人の人間の思いが、ひとつの産業を生み出したのですね。
[PR]
by hanataikoku | 2006-04-28 17:10 | きたざきの花